自我と注意についての感想|人形町駅前こころのクリニック|人形町駅 の精神科・心療内科

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自我と注意についての感想|人形町駅前こころのクリニック|人形町駅 の精神科・心療内科

こんにちは

今回は普段なんとなく考えていることを書いてみます。特段治療的に意味があるわけではないですが、AIに自我を実装するうえでは使えるかもしれません。ちょっと難しいので興味のある方向けで。

自我とは本当に「私」なのか?

“注意”から考える意識のしくみ

私たちはふだん、「自分」という存在を疑うことなく生きています。

「私はリンゴを見ている」「私は考えている」「私は痛みを感じている」。

こうした“私が体験している”という感覚は、生まれたときからそこにあるように感じられます。

しかし、近年の脳科学や意識研究をみたり日々の診療をしていると、この「自我」は固定した実体というより、脳が情報を処理する過程の中で立ち上がってくる現象的なまとまりとしての側面が見えてきます。その鍵を握るのが、「注意(attention)」という仕組みと思います。

注意とは、脳内にある膨大な情報の“前景”をつくる働き

私たちの脳は、意識していないだけで、常に膨大な量の情報を処理しています。

  • 視界の端の動き

  • 背景の音

  • 肌に触れる服の感触

  • 自分の心拍の微妙な変化

これらは、意識には上らないものの、脳の連合野では処理されています。興味深いことに、これを裏付ける研究がいくつもあります。

盲視(blindsight)

脳の視覚野(V1)を損傷した患者は「見えていない」と言いますが、実際には物体を避けたり、位置を当てたりできます。(Weiskrantz, 1997)

これは

「知覚自体は行われているが、内的な注意が向かないため“見えた”と感じない」

という状況と考えられます。このように、知覚そのものは注意とは独立に進んでいるようです。

注意が当たった瞬間、“意識された内容”になる

注意(意識)はよく「スポットライト」に例えられます。

膨大な知覚処理のなかから、現在重要なものだけを前景化する。

注意が向いた瞬間、それは“意識された出来事”になります。

この見方を理論化したものが「注意スキーマ理論(AST)」です。プリンストン大学の Michael Graziano らは、

脳は、どこに注意が向いているかを簡易モデルとして扱うことで

「意識がある」という感覚を生み出しているのではないか

と考えています。

また、Baars や Dehaene による「グローバルワークスペース理論(GWT)」でも、注意によって選ばれた情報が脳の広範囲に共有されることで

意識化するとされています。

どちらの理論も、注意が“意識”を成立させる中心的な要素になっている点で共通しています。

自我とは「注意が自分自身に向かう」ことで立ち上がるものかもしれない

注意は外界だけでなく、自分の状態そのものにも向けることができます。

  • 「私はいまリンゴを見ている」

  • 「私は落ち着かないと感じている」

  • 「私は痛みに注意が向いている」

こうした“自分が何をしているか”に注意が向くことをメタ注意と呼ぶことにしてみます。

ここに自我の源泉がある、と考える研究者もいます。

哲学者 Thomas Metzinger は、自我を「脳が構築する自己モデル」と捉え、内部状態を参照することで“私が体験している”という感覚が生まれると説きます。

自我は、人間の内部で働く「注意の再帰(recursive attention)」によって

緩やかに組み上げられたものではないか。

こう捉えると、「私」という感覚は必ずしも生得的な実体ではなく、脳の活動から自然に浮かび上がってくる現象として理解できます。

クオリア(生々しい感覚)は“知覚と記憶の差”なのかもしれない

「赤が赤く感じる」「痛みが痛い」

こうした言葉では説明しにくい感覚は、クオリアと呼ばれます。

このクオリアをどう説明するかは難しい問題ですが、予測符号化(Predictive Processing)の枠組みを借りれば、次のように考えることもできます。

脳は、今感じている知覚(高精細)と、

過去の記憶(簡略化されたデータ)を比較しながら世界を認識している。

そのため、

現在の情報が記憶との差分として大きいほど、生々しく感じられる

という仕組みが成り立ちます。

  • 初めて体験する痛み

  • 美しい景色

  • 情動を伴う出来事

  • 注意が強く集中した瞬間

こうした場面でクオリアが強く感じられるのは、情報量のギャップが大きいためと考えることもできます。

また、記憶にある「赤」が実際の赤ほど鮮やかでないのは、記憶そのものが“再構成”の性質を持つからだと言われています(Phelps & LeDoux, 2005)。

注意は「私のコントロール下」にあるとは限らない

私たちはよく、「注意を向けよう」「集中しよう」と口にします。

しかし研究をみると、注意は私たちが想像するほど自由に操作できるものではありません。

  • ADHD では注意が意図に反して散りやすい

  • 不安が強いと脅威刺激に自動的に注意が引き寄せられる

  • 催眠では注意の配分の変化によって痛覚が弱まることがある

注意には、かなりの“自律性”があるようです。

この観点は、「注意の動きが“私”という感覚をつくっている」という見方とも響き合っています。

 終わりに:自我は“脳がつくり出す物語”のようなものかもしれない

注意、メタ注意、記憶、予測、情動……

こうしたさまざまな要素が重なりあって、私たちは「私が世界を体験している」という感覚を得ています。

その“私”は必ずしも固定した実体ではなく、脳が毎瞬更新し続けている動的な構造なのかもしれません。

もちろん、これらは現時点での理論や研究をもとにした一つの見方であり、意識の問題にはまだ多くの謎が残されています。

ただ、注意という身近な機能を通して自我を眺めることで、私たち自身の体験のあり方が少し違った形で見えてくるかもしれません。